The pipe rest

無駄使いの記録

安定志向は賢いのか?

現在Lineを使用している友人にGoogle謹製のチャットアプリであるGoogleHangoutを進めてみたところ何故か断固として拒否されてしまった。新しいもの好きの私などは新サービスが出るたびに色々と弄ってみるのが好きなのだが、まあ、確かに新サービスを使用することは人によっては面倒なことなのかもしれない。

 

 
ところが色々と聞いてみると彼はインターネットブラウザもIEのままで特に不便を感じていないという。私のゲーム仲間は皆が皆ひきこもり気質があり、日がな一日ネットを見て過ごすことも多いだろうし、そうなると自然と色々と環境を自分なりに改良していくものだと持っていただけに意外な事実であった。しかも彼はスマートフォンを持っているにもかかわらずブックマークの同期すら行わずにいるという。その辺の環境をガッツリ整えてしまっている自分にとってはある意味カルチャーショックである。
 
 
無論、インターネットやスマートフォンなどは使用しないでいられればそれに越したことはないだろうし、様々な環境になおざりなのも彼がそこまでインターネットなどにハマり込んでいないという証拠なのかもしれない。現代における我々は「快適」「便利」を求めすぎるあまりに「不便」に陥る傾向があるし、立派なネット中毒、モバイル中毒の自分などは特に目的もないのに年がら年中環境を整えることに腐心している。確かにパソコンとモバイルのブックマークに差異があったところで仕事をしていない自分にとっては大したことではないし、使い勝手さえ分かってしまえば存外IEでも快適なネット生活を遅れるのかもしれない。
 
 
しかしながら、せっかく情報潤沢かつ様々なサーヴィスが溢れているなら、それを使ってみて色々な経験を積んでみるのもまた一興ではないだろうか。前述の通り自分は所謂「ガジェットオタク」で「新しいもの好き」なので便利そう、面白そうなサーヴィスがあればまず使って見るし、それで合わなければそれまで。素晴らしいものであったならそのまま乗り換えを検討するし、中にはHangoutのように当初はダメだと思っていたものが改善されてしっくり来るようになったりするものもあり、自分にしっくり来る組み合わせを色々と試行錯誤しながら探していく、という「カスタマイズ」を楽しめるのは、一昔前と比べれば大変な贅沢だと思う。当然失敗もあるだろうが、常に「より良く」ありたい、という考えは決して間違ってはいないと思うのだが。
 
 
そうは言っても自由に選べることが万人に利便性を与えるか、と言われれば決してイエスではないだろう。あまりにも多すぎる選択肢かえって人を混乱させるし、すぐさまソフトウェアを使いたいような必要にかられて使っていたり、面倒くさがりにとって「カスタマイズ」は無限とも言えるような苦痛を与える場所でしか無いかもしれない。そうなってくると多数のブラウザがある中で、多少の不便に目を瞑ってもIEを使う、といったようなことが起こるのにも納得できる気がする。仕事でインターネットを使っている人間にとってはセキュリティの問題やソフトウェアの安定性などからIEを愛用する人間も多数いるし、「革新」を望む人間からは一見古臭く見える「保守的」傾向な人間も、彼らのサイドに立ってみてみれば安定という重要なファクターが存在しており、必ずしも革新を畏れて旧態依然のソフトウェアや体制を使用しているわけではないのだ。つまり今回の事で言えば友人は私の事を「浮気性」とか「軽率」だと思っただろうし、私は私で彼のことを「遅れてる」とか「頭が硬い」と思った。これは何を重視するか、の視点の違いによるものであろう。当然新しい環境を導入する事は現在の安定した環境を崩すリスクを含んでいる。私はリスクを冒しても利便性を、彼はリスクを忌避して安定性を取ったわけだ
 
政治の世界においては当然のことだが、このようなミニマムな環境においても「視点」というのは個人の感情や意見に毒されやすく、そのフィルターによってガラリとすがたを変えるものなのである。「お前は主観で物を語っている」という口がそもそも主観に染まっているのである。詰まるところ、一個人がそれぞれの主義主張を持っている以上純粋な客観者などというものは存在し得ないのである。
 
 
では我々は客観的視点を得ることが出来ないのか、というとそんなことは無い。食べたことの無い料理の味について見聞きしてある程度の想像が出来るのと同じように、様々な視点、つまり個人の考えを見ることで限りなく客観的な視点に近づくことは出来ると思う。そこで重要になってくるのが前述の「経験」である。マルクス共産主義を考案する大前提として現在ではその対義語となっている資本主義について徹底的な研究を行ったことはあまりにも有名な逸話である。相手を知らずして批判は出来ず、批判者が賛同者よりも寧ろその内容に詳しいのは何ら不思議なことではない。保守的な事は結構だが食べもせずにこれは不味い、と決めてかかるのは決して良いことではないだろう。
 
 
こんな事を偉そうにツラツラと書いているお前はどうなんだ、という声が聞こえてくるが、恥ずかしながら自分の未だに「食わず嫌い」の性癖を直しきれていない。忌避していた食べ物をある日なんの気なしに試してみたら美味しかった、といったようなことがこの歳になってもしばしばある。いや、寧ろこの歳だから、といった所だろうか。
 
若さというのは強力な免罪符であるし、若いうちにしか人はアレコレと言っては来ない。それを余計なお世話だと跳ね除けず、若いうちに様々なことに挑戦して恥をかいたり挫折したりと言う事を経験しておくのが、人生にとっては大きな肥やしになるのかもしれない。
 
 
「無知」というのは究極の幸せであるかもしれないが、その世界は狭い。「知識」を身につけるということは一見すると勇気のいることであるし、この世の中に知らなきゃよかったと思うことなど山ほどある。クサいセリフかもしれないが、人生というのは一度しかないものである。最初から進まなければ痛い思いはしないし、他の人間が踏みならした道を行けばまず間違うことはない。だが、好奇心、冒険心から荒野を進んでちょっとくらいの擦り傷を付けるのもまた人生の楽しみの一つだろう。もしかしたらそれは人生をより味わい深くしてくれるかもしれないのだし。